小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により、旗本中心の家康本隊もようやく動き出し、東軍は西軍に総攻撃をかける。そのころ 宇喜多秀家隊は、東軍各部隊から集中攻撃を受け続けていたものの、撃退し続けていった。しかし、小早川隊らが側面から、東軍の後詰めの部隊からも波状攻撃を受ける。それでもなお宇喜多隊は激戦を繰り広げたが、とうとう宇喜多隊の各戦線が完全に崩壊し壊滅。宇喜多秀家は寝返った小早川秀秋を討とうと決心し、小早川軍に突撃して戦死しようとするが、家臣の明石全登らに説得され、やむを得ず伊吹山中に敗走する[20]。小西隊も敗れ、敗走。南宮山に布陣していた毛利らも西軍の敗北と知ると、戦わずに伊勢街道方面へ逃亡し始めた。石田隊は宇喜多・小西が敗走したあと、東軍部隊から総攻撃を受ける。圧倒的に不利であったにも関わらず、石田隊は持ち堪えていたが、とうとう壊滅した。
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こうしたなか、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲される。ここにおいて、いわゆる島津勢の「敵中突破退却戦」が開始される。島津義弘隊1,500(実際は陣防衛戦で300人程度まで激減していた)が一斉に鉄砲を放ち、家康本陣側を通り抜け撤退を開始。この「前進撤退」には福島隊ですら腰が引いたとされる。また、追撃した部隊のうち井伊直政と松平忠吉は狙撃され負傷し[21]、本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬した。島津隊は島津豊久や長寿院盛淳(阿多盛淳)、肝付兼護ら多数の犠牲を出しながらも80前後の手勢となりながらも撤退に成功した。盛惇は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと言われている。
地方への波及 [編集]
美濃関ヶ原での戦いと連動して、その前後、全国各地で東軍支持の大名と西軍支持の大名とが交戦した。