2009年07月04日

植物から繊維をとりだして紙をすくときには

植物から繊維をとりだして紙をすくときには、パルプをたたき、繊維が切断・水和・膨潤・絡み合うようにする作業が必要である。こうした作業を叩解という。パルプを叩解すると、繊維はまず内部フィブリル化し、次に外部フィブリル化する。
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内部フィブリル化
繊維の組織がゆるみ、軟らかくなる。
外部フィブリル化
繊維の表面から、ごく短い繊維の束(フィブリル)が出てくる。

水に溶かしたパルプを簀の子(すのこ)や網の上に広げることを「すく」という。「すく」は、手で行う場合は「漉く」、機械で行う場合には「抄く」と表記する。手漉きの場合、紙は1枚ずつすく。一方、機械抄きの場合は連続して紙をすくため、高速で紙を製造できる。

洋紙の製造では、幅広の紙を機械を使って連続的に抄くため、大量生産が可能となっている。洋紙製造には、次の工程がある。

パルプ化工程
調成工程
抄造工程
塗工工程
仕上・加工工程

2009年06月14日

ひまし油(ひましゆ、蓖麻子油、英語 Castor oil)は

ひまし油(ひましゆ、蓖麻子油、英語 Castor oil)は、トウダイグサ科のトウゴマの種子から採取する植物油の一種。

成分は不飽和脂肪酸(リシノール酸が87%、オレイン酸が7%、リノール酸が3%)と少量の飽和脂肪酸(パルミチン酸、ステアリン酸などが3%)のグリセリド。ひまし油は、脂肪油としては粘度、比重ともに最大であるのに加えて、低温下においても高い流動性をもつため、各種工業用の原料として広い用途がある。また、油脂として潤滑性が大変優秀であるが、酸化しやすく熱安定性が劣るため一般用としては不向きで、短時間でそのつど交換するレース用のエンジンオイルとして使用される。

ひまし油およびその加工品は、石鹸(せっけん)、潤滑油、作動油、塗料、インキ、ワックス、耐低温樹脂、ナイロン、医薬品、香水、ポマードなどの原料として用いられる。メルセデス・ベンツのブレーキホースの原料もひまし油である。

また、セバシン酸の原料としても重要である。有毒なリチンもひまし油生産時の副産物として作られる。

医薬 [編集]
用途の中で、1%程度を占めるに過ぎないが、伝統的に下剤として用いられ、日本薬局方にも収載されている。
河川のお話
大阪情報
欧米の美術
ことわざ集
茨城の情報
せの付く言葉
惑星のお話
香り・情報
コインの秘密
知って・マナー
泌尿器科
棚田
弓道
四国
水族館
フラメンコ
昆虫
医用生体工学
上場
バイアスロン

その他 [編集]
アニメの『ポパイ』の恋人の女性オリーブ・オイルの兄はキャスター・オイル(Castor Oyl)という名であるが、ひまし油の英語名をもじっている。
イタリアのムッソリーニ率いるファシスト党は、自白を強要するために大量のひまし油を飲ませる拷問を行ったという。下痢によって死亡したものもいると言われる。

2009年05月29日

西軍敗走

小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により、旗本中心の家康本隊もようやく動き出し、東軍は西軍に総攻撃をかける。そのころ 宇喜多秀家隊は、東軍各部隊から集中攻撃を受け続けていたものの、撃退し続けていった。しかし、小早川隊らが側面から、東軍の後詰めの部隊からも波状攻撃を受ける。それでもなお宇喜多隊は激戦を繰り広げたが、とうとう宇喜多隊の各戦線が完全に崩壊し壊滅。宇喜多秀家は寝返った小早川秀秋を討とうと決心し、小早川軍に突撃して戦死しようとするが、家臣の明石全登らに説得され、やむを得ず伊吹山中に敗走する[20]。小西隊も敗れ、敗走。南宮山に布陣していた毛利らも西軍の敗北と知ると、戦わずに伊勢街道方面へ逃亡し始めた。石田隊は宇喜多・小西が敗走したあと、東軍部隊から総攻撃を受ける。圧倒的に不利であったにも関わらず、石田隊は持ち堪えていたが、とうとう壊滅した。
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こうしたなか、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲される。ここにおいて、いわゆる島津勢の「敵中突破退却戦」が開始される。島津義弘隊1,500(実際は陣防衛戦で300人程度まで激減していた)が一斉に鉄砲を放ち、家康本陣側を通り抜け撤退を開始。この「前進撤退」には福島隊ですら腰が引いたとされる。また、追撃した部隊のうち井伊直政と松平忠吉は狙撃され負傷し[21]、本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬した。島津隊は島津豊久や長寿院盛淳(阿多盛淳)、肝付兼護ら多数の犠牲を出しながらも80前後の手勢となりながらも撤退に成功した。盛惇は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと言われている。


地方への波及 [編集]
美濃関ヶ原での戦いと連動して、その前後、全国各地で東軍支持の大名と西軍支持の大名とが交戦した。

2009年04月25日

覇権主義

覇権主義(はけんしゅぎ)は国家またはそれに準ずるものの、外交・軍事における傾向の一種。当該国の実利的利害関係にのみ基づいて他国に対する対応を決定し、敵対国に対する侵略戦争や先制攻撃によって(若しくは挑発を行なって相手に攻撃させ開戦の正当性や大義を主張し)領土の拡大や自国の安全保障を行い、同盟国や敵対国の反対勢力に対する軍事・経済協力を進める。それを実行し、成功した国を覇権国家と言う。陸軍国家(大陸国家)であることが多い。

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自国の利益を優先するマキャベリズムは、軍事・外交の世界においてはほぼすべての場合において見られるが、覇権主義は以下の点が特徴的である。

マキャベリズムを糊塗するために、理想の世界秩序を掲げその実現のために自国が努力しているという建前を持たない、または甚だしく軽視する。
王道主義、理想主義的な態度からは遠い。
自国と同程度以上の国際勢力と協調して覇権を敷くという発想(国際協調主義)を持たない。
常に一国主義的である(自国の主張のみが正義であり、世界は我が国に従っておればよい、この秩序を保つためであれば我が国はいかなる行為に出る事も許されるとする。戦争もその選択肢から除外されない)。
東西冷戦時の陣営・同盟国的発想とは異り、たとえ自国の利益と一致する場合においても、他の勢力と協調することが自国の国際的権威や権力を弱体化させる虞がある場合には単独行動を選ぶ。
中世や古代ではこの覇権主義が主流で、第二次世界大戦期までこの傾向は見られた。一般に覇権主義を展開する大国は周囲の敵対する小国などを滅亡させる傾向が強く、その際のジェノサイドも凄まじい。国が大きくなりすぎるゆえ、内部分裂の発生、経済力の疲弊、市民革命の勃発、軍事力の後方支援体制の不備などが元で崩壊に至る。

2009年04月08日

フュージョン (音楽)

フュージョン(Fusion, Jazz Fusion)とは、ジャズを基調にロックやファンク、R&B、電子音楽、ワールドミュージックなどを融合(フューズ)させた音楽のジャンル。

1960年代の後半より、電気楽器やロック風な奏法を取り入れた、新しい演奏スタイルジャズ・ロック、クラシックや現代音楽の要素を取り入れたクロスオーバーを経て、アメリカなどでは1970年代終盤、日本でも同時期から1980年代に入ると、よりソフィスティケイトされたポピュラーな曲想や演奏となった[要出典]。これを、他のジャンルと融合した音楽としてフュージョンという新たなジャンルで呼ばれた。1990年代より現在ではよりポップ性を持たせ、大衆により聞きやすくなったスムーズジャズがアメリカのラジオ局を中心に人気になっている[要出典]。

アメリカのビルボードにおいてはフュージョンはコンテンポラリー・ジャズと分類されており、このコンテンポラリー(同世代の)の意味合いは、「現時点における音楽の手法を用いたもの」と考えた方がいいだろう[要出典]。ここで混合されやすいのはモダン・ジャズとの違いである。モダンジャズのモダン(現代の)とは、ビ・バップ以降のストレート・アヘッド・タイプのジャズを示す言葉であると考えた方がいいだろう。

「16ビート」がその代名詞ともなっていき、後には、このジャズやロックなどがミックスされた音楽であるフュージョンの要素が、「8ビート」中心のロックなどにも、逆に取り込まれるようになる。そのことからも、現在の視点から判断すると、単なるミックスされた音楽というよりも、前述した「新たな独立した音楽ジャンル」という表現の方が相応しい。

このような楽曲的性格から、BGMとしても馴染みの良い音楽に仕上がっているため、番組専用の音楽が作られていないテレビ・ラジオ番組において、あらゆる場面であらゆるアーティストの楽曲がテーマ曲やBGMとして多用されているほか、中には番組テーマ曲として使用されることを前提として作られた曲も存在する。

また、売れる音楽ということで、ジャズミュージシャン側からこの音楽を演奏する状態も多かったが、日本でのブームの際には、多数のジャズ系ミュージシャン、それより少数派のロック系ミュージシャンの他、後に、独自のフュージョン系ミュージシャンも登場した[要出典]。そのことからも、現在は、「伝統的なジャズの流れや進歩の系譜として扱うには、やや疑問」という見解と、逆にここから、現在のジャズの最先端ともいうべき、ポップ化への動きが盛んになったとの見方もあり、そういった「現在のコンテンポラリー・ジャズへ至る、あらゆる意味での大元である」との見解とに別れている[要出典]。

起源 [編集]
1960年代半ばにキャノンボール・アダレイがジャズとポップを融合させた音楽を演奏し始める。'60年代後半になるとマイルス・デイヴィスやトニー・ウィリアムスのライフタイムがエレクトリック・ギターやベース・ギター、エレクトリック・ピアノといった電気楽器を用いてロックをジャズに取り入れ演奏し始める。後にハービー・ハンコックやジョー・ザヴィヌル、ヤン・ハマー、チック・コリア等がモーグ・シンセサイザーを取り入れ始める。

トランペッターのマイルス・デイヴィスがIn a Silent Way (1969)とBitches Brew (1970)を発表し、フュージョンの雛形を作る

インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア

2009年03月24日

ピン・リンク式連結器

主に黎明期のアメリカの鉄道や、軽便鉄道、あるいは産業鉄道などで用いられた簡易型の連結器で、鎖やロープなどを除けばもっとも簡素な連結器である。書類上この連結器は「中央緩衝連結器」と呼称するが、受け板の形状などから、俗に朝顔型連結器[7]とも言われる。

アメリカでは1893年に法律で幹線鉄道での使用が禁止されて淘汰されたが、その簡便さ故に軽便鉄道や産業鉄道向けでは全世界的に、現在のフォークリフトにもその機構の名残と言える落とし込みピンによる連結機能が残されるなど、広範囲に普及している連結器である。

通常、この連結器ではその先端に四角または楕円形の受け板があり、中心に穴が空いている。この穴に連結器同士を結合するリンクを差し込み、受け板直後にピンを入れて連結器に固定する。リンクが固定式の場合は連結方向が限られる。

また、厚板で構成されるピン支持部に太い落とし込みピンを差し込み、それに太いリンクを通して牽引力を伝達し、ピン支持部の下に設置した幅広のバッファで押し合う構造のものも存在し、こちらは低規格であっても大きな牽引力を要求される鉱山鉄道[8]などで使用された。

通常いずれの場合もリンクは水平位置で使用されるが、改軌前の栗原鉄道など一部の鉄道では垂直方向にリンクを使用するタイプのものが使用されていた[9]。

構造は非常に簡単だが、連結時にピン挿入の手間がかかり、また牽引力がリンクおよびピンの強度に依存するため、ごく簡易な用途にしか使用できない。

また日本では、出所不明[10]ながら車端中央の緩衝器の下に可動式で先端がフォーク状になったアームを伸ばし、車両の連結時に双方から伸びたアームの固定穴の位置を合わせ、ボルトを水平方向に通してナットで固定することで2本のアームを固定し牽引力の伝達を可能とする、特異かつ非効率的な構造の連結器が鞆鉄道や湘南軌道などで使用されていたことが確認されている。

21世紀初頭の時点では、軽便鉄道そのものが日本からほとんど消滅したため、営業路線でこのタイプの連結器が現存するのは黒部峡谷鉄道のみである。近畿日本鉄道特殊狭軌線(およびそれを継承した三岐鉄道北勢線)でも使用されていたが、現在はCSC91と呼ばれる通常の3/4サイズの自動連結器に交換されている。

自動連結器 [編集]
従来型の連結器では、連結手の負傷事故が絶えなかった(日本の統計は下記#背景を参照)。これを憂えた発明家のイーライ・ジャニー(Eli Hamilton Janney)によって、1868年に人の手と手を組み合わせた形をヒントに考案され、その後1873年に特許が取得された、自動ロック機構を備える連結器である。

開発当時、アメリカでは原始的なピン・リンク式連結器と手ブレーキが使用されていたが、1880年代にまずアリゾナ州が安全性確保の見地から、その州法によりこの自動連結器と自動空気ブレーキの採用を義務化して以降、アメリカでは急速にこの2つの機構が普及し、最終的には1893年、当時のハリソン大統領がこれらの装着を義務づける法案に署名を行って連結器とブレーキシステムの統一が完了した。

自動連結器はアメリカ・カナダ・ロシア[11]・中国などで一般的に用いられている。日本では機関車・客車・貨車などで広く用いられている。略して自連(じれん)と呼ぶこともある。
連結器のナックル(先端部分)が、ナックルピンを軸にして外側に開くようになっている。錠と解放てこの位置の違いにより、上作用式と下作用式がある。一般的に機関車・貨車は、てこの取り回しがしやすい上作用式が、また客車など旅客車両では、貫通路に抵触しない下作用式が多く用いられる。上作用式と下作用式は相互の連結が可能である。

パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう


2009年03月09日

ロバート・A・ハインライン

ロバート・アンスン・ハインライン(Robert Anson Heinlein、1907年7月7日 - 1988年5月8日)はアメリカのSF作家。アンスン・マクドナルド(Anson MacDonald)、ライル・モンロー(Lyle Monroe)などの名義で執筆していた時期もある(いずれも中・短編)。

SF界を代表する作家のひとり。アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラークと並んで、世界SF界のビッグスリーとも呼ばれている。ハインラインに影響を受けたSF作家も数多い。

ロマンティックなタイム・トラベル物『夏への扉』は特に人気の高い作品であり、日本でのSFファンのオールタイム・ベスト投票では、度々ベスト1作品になっている。

1907年7月7日ミズーリ州で、ドイツ系の家庭に生まれる。1925年にアナポリスの海軍兵学校に入学。その後海軍士官になったが病気のために1934年退役。その後UCLAの大学院で数学を学んだが、再び病気で退学。以後職を転々とし、肉体労働を経験する。この頃のハインラインは社会主義者で、1934年のカリフォルニア州知事選では民主党の中でも社会主義者のアプトン・シンクレア候補を熱烈に支持し、1939年まで政治活動に明け暮れた(選挙にも出た)。アシモフによると、ハインラインは元々はリベラル派であり、ハインラインが右旋回するのはバージニア・ガーステンフェルドと再婚してからである(I. Asimov: A Memoir)。

1939年4月、4日間で書き上げた第一作『生命線』をアスタウンディング誌に送り、デビューを果たす。

1943年、技術士官(航空工学)として海軍に復帰。戦争終結後、1946退役、著述を再開する。

以後『宇宙の戦士』、『ダブル・スター(太陽系帝国の危機)』、『異星の客』、『月は無慈悲な夜の女王』でヒューゴー賞を計4回受賞(いずれも長編小説部門)。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

初期の頃は未来史シリーズなど、科学小説としてのSFを書いていたが、次第に社会性が強くなり、『宇宙の戦士』では軍国主義を賛美する兵士の描写があったことから右翼と呼ばれ、一方の社会主義者の名残が表れている『月は無慈悲な夜の女王』では左翼と呼ばれるなど多彩な顔を持った。中でも宗教を扱った『異星の客』の反響は大きく、ヒッピーの経典と崇められ、ファンが分かれたという。『異星の客』中の「グロク」 (grok) という造語がオックスフォード英語辞典に載ったり、終いにはマンソン・ファミリーが実際のカルト活動で『異星の客』中の宗教をまねたりもした。他のSF作家がSF雑誌に作品を載せるなか、ハインラインは自分の作品を『サタデー・イブニング・ポスト』などの一般紙に載せた。この結果としてSFの大衆化が進んだのは、ハインラインの功績の一つである。

作風としては、既存の小説やテーマの舞台をSFに置き換えたものが多い。例えば、上記の「宇宙の戦士」は兵隊出世物語のSF版、「ダブル・スター」 はゼンダ城の虜の政治SF版であり、「異星の客」は風刺小説、「月は無慈悲な夜の女王」は社会主義革命をそれぞれSFにしたものである。また、ほぼ一貫して「庶民感覚を忘れてはいないが、あくまでも庶民と一線を画するエリートによる寡頭制」、「弱者に無償で施しを与えることを良しとしない能力主義社会」を理想として肯定的に描いている。

1988年5月8日肺気腫により死去。遺作は『落日の彼方に向けて』。

作品リスト
長編
Rocket Ship Galileo (1947) 『宇宙船ガリレオ号』(同題の抄訳版あり)
Space Cadet (1948) 『栄光のスペース・アカデミー』
Beyond This horizon (1948) 『未知の地平線』
Sixth Column (別題The Day after Tomorrow) (1949) 未訳
Red Planet (1949) 『レッド・プラネット』(抄訳『赤い惑星の少年』)
Farmer in The Sky (1950) 『ガニメデの少年』
The Puppet Masters (1951) 『人形つかい』(児童向け抄訳『タイタンの妖怪』)
Between Planets (1951) 『栄光の星のもとに』(児童向け抄訳『宇宙戦争』)
The Rolling Stones (別題Space Family Stone) (1952) 『宇宙の呼び声』創元推理文庫(福島正実による抄訳版〔邦題同じ〕あり)
Starman Jones (1953) 『スターマン・ジョーンズ』
The Star Beast (1954) 『ラモックス』(福島正実による抄訳『宇宙怪獣ラモックス』)
Tunnel in The Sky (1955) 『ルナ・ゲートの彼方』
Time of the Stars (1956) 『宇宙(そら)に旅立つ時』(児童向け抄訳『宇宙兄弟のひみつ』)
Double Star (1956) 『ダブル・スター』(訳: 森下弓子、1994年)、『太陽系帝国の危機』(訳: 井上勇)、1964年ヒューゴー賞受賞
Citizen of the Galaxy (1957) 『銀河市民』
The Door into Summer (1957) 『夏への扉』
Have Space Suit -- Will Travel (1958) 『スターファイター』(抄訳『大宇宙の少年』)
Methuselah's Children (1958) 『メトセラの子ら』(旧題『地球脱出』)
Starship Troopers (1959) 『宇宙の戦士』、ヒューゴー賞受賞
Stranger in the Strange Land (1961) 『異星の客』、ヒューゴー賞(1962年)、ローカス賞(1975年)受賞
Podkayne of Mars (1963) 『ポディの宇宙旅行』(改題『天翔ける少女』)
Orphans of the Sky (1963) 『宇宙の孤児』(※1963年は単行本化の年代であり、発表されたのは1941年)
Glory Road (1963) 『栄光の道』
Farnham's Freehold (1964) 『自由未来』
The Moon is a Harsh Mistress (1966) 『月は無慈悲な夜の女王』(ヒューゴー賞、プロメテウス賞受賞)
I Will Fear No Evil (1971) 『悪徳なんか怖くない』
Time Enough for Love (1973) 『愛に時間を』
The Number of the Beast (1980) 『獣の数字』
Friday (1984) 『フライデイ』
JOB : A Comedy of Justice (1984) 『ヨブ』
The Cat who walks through Walls (1985) 『ウロボロス・サークル』
To Sail beyond the Sunset (1987) 『落日の彼方に向けて』
For Us, the living

中・短編集
The Man Who Sold the Moon (1950) 『月を売った男』
Waldo and Magic Inc. (1950) 『魔法株式会社(ハインライン傑作選3)』
The Green Hills of Earth (1951) 『地球の緑の丘』
Revolt in 2100 (1953) 『動乱2100』(別訳『150年後の革命』)
Assignment in Eternity (1953) 『失われた遺産(ハインライン傑作選1)』
The Menace from Earth (1959) 『地球の脅威』(改題: 『時の門(ハインライン傑作選4)』)
The Unpleasant Profession of Jonathan Hoag (1959) 『輪廻の蛇(ハインライン傑作選2)』
The Worlds of Robert A. Heinlein (1963) 未訳
The Past Through Tomorrow (1967) ハヤカワ文庫SF版〈未来史〉として3分冊で翻訳刊行
『デリラと宇宙野郎たち』
『地球の緑の丘』(上記の同題の本とは収録作が多少異なる)
『動乱2100』(表題作ほか『疎外地』と『不適格』を収録)
The Best of Robert Heinlein 1939-1959 (1973) 未訳
Expanded Universe: More Worlds of Robert A. Heinlein (1980) 未訳

2009年02月20日

半装軌車(はんそうきしゃ)

半装軌車(はんそうきしゃ)とは、前輪はタイヤ(車輪)、後輪の代わりにトラック(履帯)を持つ車両。履帯で駆動するが、前輪は駆動する物とそうでない物があり、また前輪で操行する物と、前輪が無くとも左右の履帯の速度を変えて操行可能な物もある。
モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

ハーフトラック、民間では半無限軌道式自動車とも呼ばれ、これに対し車輪の代わりに履帯を全面的に採用している車両を全装軌車、民間では無限軌道式自動車と呼ぶ。なお「ハーフトラック」のトラックは“truck”(貨物自動車)ではなく“track”(履帯)であるが、日本語での発音が同じため間違えられやすい。

また、この種の車両以外に、車輪を着脱可能な履帯で覆ったクリスティー T-3のような車両も、ハーフトラックと呼ばれることがある。

装輪車両に比べて路外走行性能が優れ、ある程度戦車等の装軌式戦闘車両に追随できるために、野砲、高射砲の牽引車・装甲兵員輸送車・偵察車・無線指揮車などとして幅広く使用された。

第二次世界大戦では主にドイツやアメリカ、フランスや日本で使用されていた。大戦時のイギリス連邦軍やソ連軍では、レンドリース法によりアメリカから提供されたM5及びM9ハーフトラックが使用された。

抵抗の大きな全装軌車は装輪式と同じ速度を出すために2倍以上の馬力が必用であり変速機もその馬力に耐える必要があるため「製造コストが高い」「信頼性が低い」「整備コストが高い」「稼働率が低い」「運転と整備の技術を習得するための時間が長い」などの問題点を抱えていた。これらの問題点は現代においては技術の進歩により解決されているが、当時の技術水準では未解決だった。

特にエンジン技術が未発達で現在よりも馬力の劣るエンジンしか無かった当時では速度と経済性を高める為には両方の長所を半分ずつ持った中間的なハーフトラック式が採用されることになった。 しかし、ハーフトラック式で完全に戦車に追随できる兵員輸送車を作ることには無理があり、技術の進歩と共に速度と経済性において全装軌車より優れるというメリットが消失していったこともあり、戦後は殆どが全装軌式となった。

ドイツ陸軍の半装軌車

Sd Kfz 11/2Sd.Kfz.2(ケッテンクラート)
Sd Kfz 3(2トン積「マウルティア」=既存のトラック改造半装軌車)
Sd kfz 4(4.5トン積「マウルティア」=既存のトラック改造半装軌車)
Sd Kfz 6(5トン牽引車)
Sd Kfz 7(8トン牽引車、8.8 cm 高射砲の牽引で有名)
Sd Kfz 8(12トン牽引車)
Sd Kfz 9(18トン牽引車)
Sd Kfz 10(1トン牽引車)
Sd Kfz 11(3トン牽引車)
sWS (Shwerer Wehrmacht Schlepper、重国防軍牽引車)
Sd.Kfz.250(軽装甲兵員輸送車)
Sd.Kfz.251(中型装甲兵員輸送車)
Sd.Kfz.252(軽装甲弾薬運搬車)
Sd.Kfz.253(軽装甲観測車)

アメリカ陸軍の半装軌車
ケグレスハーフトラック(1925年フランス製)
ケグレス P.17(1931年フランス製)
カニンガム T1、T1E1(1932年)
カニンガム M1(1933年)
マーモン・ヘリントン T9(1938年)
ダイアモンド・T・モーターカー T14、
ホワイト・モーターおよびオート・カー M2、M3、M2A1、M3A1、M5、M9
M4/M4A1 81mm自走迫撃砲(M2に81mm迫撃砲M1を搭載)

2009年02月04日

水野氏(みずのし)は清和源氏の一門

水野氏(みずのし)は清和源氏の一門。経基王の王子で源満仲の弟、鎮守府将軍源満政を祖とする。満政の7世、重房の代に至り、小川氏を称した。その子、重清の代に至り水野氏を称するという。代々、三河国刈谷城主。徳川家康の母、伝通院の実家にあたる。柳営秘鑑では、岡崎譜代。
らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

近世大名家を輩出した一族の一つ。幕末期において、下総結城藩、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩の藩主が水野氏であった。その他、寛文7年(1667年)に改易となった上野安中藩の藩主や紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族であった。

水野氏の出自は「寛政重脩諸家家譜」に従い清和源氏満政流とされているが、藤原氏を称したり尾張藩士となった家に桓武平氏を称するものがあったりすることから、源氏と断定できず諸説ある状態である。苗字の地は尾張春日井郡水野郷(瀬戸市水野)とされるが、京都嵯峨水野の里とする説が「寛政譜」には記されている。

戦国期において水野氏が勢力を伸ばすのは、15世紀中頃、水野貞守が尾張知多郡小河(知多郡東浦町緒川)に拠点を置いたのに始まる。その後、緒川城主水野忠政のときには三河碧海郡に勢力を伸ばして、刈谷城(刈谷市)に拠った。当初は近郷に割拠する松平氏との関係が深く頻繁に通婚していた。徳川家康の母伝通院(水野忠政の娘)の入輿もこれらの交流の一つである。しかし忠政の死後、嫡男水野信元は、尾張において台頭した織田信秀と同盟を結んで今川氏支配下の松平氏と反目。永禄3年(1560年)「桶狭間の戦い」に勝利した織田信長の臣下となる。

その後、天正3年(1575年)水野信元は信長に武田氏への内通を疑われて切腹する。この時、一族の多くは家康を頼り岡崎に逃れている。これ以降、水野氏は徳川氏の家臣団に組み込まれる。ただし、佐久間信盛失脚後水野忠政4男水野忠守が緒川、水野忠政9男水野忠重は刈谷の旧領に復した。忠重は織田信雄に仕えた後、刈谷城主として豊臣秀吉の家臣となる。1600年、関ヶ原の合戦の直前に石田三成方に殺害されるが、その子水野勝成と水野忠清は直臣として家康に仕え、勝成が備後福山藩・下総結城藩水野家の祖、忠清は駿河沼津藩水野家および上総鶴牧藩水野家の祖となる。また水野忠政4男水野忠守は出羽山形藩水野家の祖であり、さらに水野忠政8男水野忠分の子水野分長と水野重央は、それぞれ安中藩水野家と紀伊新宮藩水野家の祖である。

ただし、戦国時代の水野氏の系図は異同が激しく、系譜関係は不明である。永正期の今川氏による三河侵攻による混乱や信元の死による一族離散が影響したという。また、出自を源氏とし、忠政?信元?忠重流を宗家とする系譜操作が行われたためとも言われる(『刈谷市史』2巻)。

緒川藩
刈谷藩

備後福山藩・結城藩水野家
和泉守忠重の子日向守勝成を祖とする家で、水野一族の宗家筋に当たる。領地は、三河刈谷より大和郡山、備後福山といずれも枢要の地を任された。5代勝岑が2歳で夭折すると跡目を失い断絶となるが、名門の家柄が惜しまれ勝成の孫である勝長が跡目を継ぎ家名の存続が許された。以後、小禄ながら幕末まで存続するが、明治維新には隠居した勝進と当主である勝知が勤王と佐幕に別れ対立し、居城の結城城を奪い合うことになった。歴代当主は以下の通り。なお、個別ページのある当主にはリンクを付した。

1.日向守勝成

(リンク先参照)
2.美作守勝俊

慶長3年(1598年)に備中成羽で生まれる。慶長13年(1608年)に徳川秀忠に初めて披露され、翌14年(1609年)に従五位下に任官し美作守を名乗る。大坂の陣、島原の乱に参戦。寛永16年(1639年)父の隠居により福山藩を相続。寛永19年(1642年)従四位下に昇進。明暦1年(1655年)に江戸で死す。正室は九鬼長門守守隆の娘。
3.日向守勝貞

寛永2年(1625年)に備後鞆で生まれる。島原の乱に参戦し、凱旋後の寛永16年(1639年)に徳川家光に初めて披露される。翌17年(1640年)従五位下に任官し備後守を名乗る。明暦1年(1655年)父の死により福山藩を相続、名乗りを日向守に改める。寛文2年(1662年)に江戸で死す。正室は酒井讃岐守忠勝の養女。
4.美作守勝種

寛文1年(1661年)に福山で生まれる。寛文3年(1663年)父の死により福山藩を相続。寛文8年(1668年)に徳川家綱に初めて披露され、延宝3年(1675年)に従五位下に任官し美作守を名乗る。天和1年(1681年)越後騒動により断罪された松平三河守綱国を預かる。元禄2年(1689年)および元禄5年(1692年)に奥詰を勤める。元禄10年(1697年)に江戸で死す。正室は酒井雅楽頭忠清の娘。
5.松之丞勝岑

元禄10年(1697年)に福山で生まれ、同年父の死により福山藩を相続。翌11年(1698年)に江戸で死す。福山藩は無嗣により改易となる。
6.隠岐守勝長

日向守勝成の孫で分家の備前守勝直の子。延宝7年(1679年)に江戸で生まれる。元禄8年(1695年)に徳川綱吉に初めて披露される。元禄11年(1698年)、勝岑の名跡を継ぐことを許され能登羽咋郡西谷に1万石を与えられる。翌12年には小姓並から小姓に進み、従五位下に任官し隠岐守を名乗る。元禄13年に下総結城に転封となり、翌14年に3000石加増される。元禄16年にはさらに5000石の加増があり、結城城築城を命ぜられ城主に列する。この年江戸で死す。正室は内田出羽守正衆の娘。
7.日向守勝政

隠岐守勝長の弟。貞享2年(1685年)に江戸で生まれる。元禄14年(1701年)に徳川綱吉に初めて披露され、翌15年に小姓となり従五位下に任官し摂津守を名乗る。元禄16年に兄勝長の末期養子となり、翌宝永1年(1704年)結城藩を相続。宝永4年(1707年)に小姓を免ぜられる。享保8年(1723年)名乗りを日向守に改める。元文1年(1736年)隠居して名乗りを摂津守とする。延享2年(1745年)に江戸で死す。正室は風早宰相公長の娘。
8.日向守勝庸

享保3年(1718年)に結城で生まれる。享保18年(1733年)に徳川吉宗に初めて披露される。翌19年に従五位下に任官し下野守と名乗る。元文1年(1736年)父の隠居により結城藩を相続し、名乗りを日向守に改める。寛延2年(1749年)に江戸で死す。正室は榊原式部大輔正邦の娘、その死後風早宰相実積の娘を継室に迎える。
9.日向守勝前

日向守勝庸の弟。享保9年(1724年)に結城で生まれる。元文2年(1737年)に徳川吉宗に初めて披露される。寛延2年(1749年)に兄勝庸の養子となり、その死により結城藩を相続。同年従五位下に任官し日向守を名乗る。宝暦13年(1763年)に隠居して摂津守を名乗るが、同年江戸で死す。正室は内藤紀伊守信輝の娘。
10.日向守勝起

延享2年(1745年)に結城で生まれる。宝暦12年(1762年)に徳川家治に初めて披露され、従五位下に任官し下野守を名乗る。翌13年に父の隠居により結城藩を相続して、日向守に改める。天明3年(1783年)に江戸で死す。正室は松平遠江守忠名の娘、その死後小笠原信濃守長逵の娘を継室に迎える。
11.日向守勝剛

中川修理大夫久貞の子。宝暦10年(1760年)に江戸で生まれる。天明3年(1783年)に日向守勝起の末期養子となり結城藩を相続、徳川家斉に初めて披露される。同年、従五位下に任官し日向守を名乗る。寛政12年(1800年)に隠居し、天保5年(1834年)に死す。
12.日向守勝愛

安永9年(1780年)に生まれる。寛政12年(1800年)に父の隠居により結城藩を相続する。天保6年(1835年)に隠居し、天保8年(1837年)に死す。正室は青山大膳亮幸完の娘。
13.日向守勝進

文化14年(1817年)に生まれる。天保4年(1833年)に徳川家斉に初めて披露され、従五位下に任官し左衛門尉を名乗る。天保6年(1835年)に父の隠居により結城藩を相続し、名乗りを日向守に改める。安政6年(1859年)に隠居する。正室は植村出羽守家教の娘。
14.日向守勝任

紀伊新宮藩主水野土佐守忠央の子。天保11年(1840年)に生まれる。安政6年(1859年)に結城藩を相続。文久2年(1862年)死す。正室は松平石見守乗利の娘。
15.日向守勝知

二本松藩主丹羽左京大夫長富の子。天保9年(1838年)に生まれる。文久2年(1862年)に結城藩を相続。正室は内藤因幡守政民の娘。

沼津藩水野家
勝成の弟隼人正忠清を祖とする家。代々出羽守を名乗り帝鑑間に詰めた。領地は上野小幡より勝成移封後の三河刈谷に入りその後同国吉田、信濃松本と移る。しかし、松本藩主時代の享保10年(1725年)に6代隼人正忠恒が江戸城中で刃傷事件を起こしたため改易となる。その後、叔父出羽守忠穀に家名存続のみが許されたが、その子出羽守忠友が家治の側近として活躍したため明和5年(1768年)三河大浜にて大名に復帰する。さらに安永6年(1777年)には駿河沼津城を与えられ城持ち大名となる。大名復帰後は、当主が側用人や老中といった幕府要職に就任する機会が多くなった。明治元年(1868年)徳川家達の駿河府中入封に伴い、所領5万石の内2万3700石を上総菊間に移される。歴代当主は以下の通り。

1.隼人正忠清

(リンク先参照)
2.出羽守忠職

慶長18年(1618年)江戸で生まれる。寛永11年、従五位下に任官し出羽守を名乗る。正保4年、父忠清の死により松本藩を相続する。承応1年(1652年)大坂城代に就任し、寛文2年(1662年)まで勤める。寛文8年に江戸で死す。正室は中川内膳正久盛の娘。
3.隼人正忠直

承応1年(1652年)江戸で生まれる。万治2年(1659年)徳川家綱に初めて披露される。寛文6年(1666年)、従五位下に任官し中務少輔を名乗る。寛文8年、父忠職の死により松本藩を相続する。寛文10年、名乗りを隼人正に改める。正徳3年(1713年)に松本で死す。正室は鍋島丹後守光茂の娘。
4.出羽守忠周

延宝1年(1673年)江戸で生まれる。天和3年(1683年)徳川綱吉に初めて披露される。貞享4年(1687年)、従五位下に任官し出羽守を名乗る。元禄4年(1691年)奥詰に任ぜられ名乗りを中務少輔に改め、後小姓に転任するが1月で辞任する。正徳3年(1713年)、父忠直の死により松本藩を相続し、名乗りを出羽守に改める。享保3年(1718年)に江戸で死す。正室は前田飛騨守利治の娘。
5.日向守忠幹

元禄12年(1699年)江戸で生まれる。宝永6年(1709年)徳川家宣に初めて披露される。正徳3年(1713年)、従五位下に任官し日向守を名乗る。享保3年(1718年)に父忠周の死により松本藩を相続する。享保8年(1723年)江戸で死す。正室は浅野安芸守綱長の娘。
6.隼人正忠恒

元禄14年(1701年)出羽守忠周の子として江戸で生まれる。享保4年(1719年)徳川吉宗に初めて披露される。享保8年、兄忠幹の死により末期養子となり松本藩を相続する。同年、従五位下に任官し隼人正を名乗る。享保10年、江戸城中において乱心し毛利主水正師就に斬りかかったため改易となる。その後身柄は、秋元伊賀守喬房に預けられ、後に弟忠穀のもとで蟄居する。元文4年(1739年)に死す。正室は戸田伊勢守氏長の養女。
7.出羽守忠穀

宝永4年(1707年)出羽守忠周の子として生まれる。享保10年に兄忠恒が改易となったが、名門と言うことで忠穀に7000石が与えられ家名の存続を認められた。元文1年(1736年)、定火消、書院番頭を歴任し、従五位下に任官し出羽守を名乗る。元文4年には大番頭に就任するが、大坂在番中の寛保2年(1742年)に死す。
8.出羽守忠友

享保16年(1731年)江戸で生まれる。元文4年(1739年)に徳川家治の御伽衆となる。寛保2年(1742年)に父の死により家督を相続する。寛保3年に小姓となる。延享4年に従五位下に任官し豊後守を名乗る。宝暦8年(1758年)に小姓組番頭格、宝暦10年に側衆と将軍近侍の職を歴任する。明和2年(1765年)に1000石加増、明和5年にはさらに5000石加増され大名に復帰する(三河大浜藩)。この年、若年寄を命ぜられ名乗りを出羽守に改める。安永6年(1777年)には側用人となり、従四位下に昇進すると共に駿河沼津藩2万石に転封となる。天明1年(1781年)に老中格となり、5000石加増され侍従に昇進する。天明5年には老中となりさらに5000石加増される。天明8年に免職となるが、寛政9年(1797年)には西丸老中に復帰する。享和2年(1802年)に死す。田沼意次に取り入りその子忠徳を養子に迎えるなどして大名復帰や老中就任を果たしたが、松平定信が政権を握ると忠徳を廃嫡するなどその変わり身の早さで地位を守った。正室は牧野内膳正康周の娘。
9.出羽守忠成

宝暦12年(1762年)岡野肥前守知暁の子として江戸で生まれる。安永6年(1777年)に徳川家治に初めて披露され、翌年水野勝五郎忠隣の末期養子となりその家を相続する。小納戸、小姓を歴任し天明5年(1785年)に従五位下に任官し大和守を名乗る。天明6年に忠友の養子となり、享和2年(1802年)に沼津藩を相続する。同年奏者番に就任し、翌年には寺社奉行を兼ねる。文化3年(1806年)には若年寄、文化9年には西丸側用人、文政1年(1818年)には老中を勤める。天保5年(1834年)に死す。正室は出羽守忠友の娘。
10.出羽守忠義

寛政4年(1792年)生まれる。天保5年(1834年)沼津藩を相続。天保13年に死す。正室は松平和泉守乗寛の娘。
11.出羽守忠武

文政7年(1824年)生まれる。天保13年(1842年)沼津藩を相続。弘化1年(1844年)に死す。正室は毛利大膳大夫斉煕の娘。
12.出羽守忠良

天保5年(1834年)出羽守忠義の子として生まれる。弘化1年(1844年)沼津藩を相続。安政5年(1858年)に死す。
13.出羽守忠寛

文化4年(1807年)水野午之助忠紹の子として生まれる。安政5年(1858年)沼津藩を相続し、同年奏者番となる。翌6年には側用人に進む。文久2年(1862年)側用人を免ぜられ隠居する。正室は牧野忠救の娘。
14.出羽守忠誠

天保5年(1834年)本多中務大輔忠考の子として生まれる。文久2年(1852年)沼津藩を相続する。翌年奏者番兼寺社奉行となり元治1年(1864年)まで勤める。慶応2年(1866年)老中に任ぜられ、第二次長州征伐の大将を命ぜられるが、準備のため帰国した沼津で急死する。
15.出羽守忠敬

嘉永4年(1851年)水野宮内忠明の子として生まれる。慶長2年忠誠の急死により沼津藩を相続する。正室は松平織部正正和の娘。明治元年(1868年)所領5万石のまま上総菊間に藩庁を移転した後、廃藩置県を迎える。

鶴牧藩水野家
忠清の子周防守忠増を祖とする家。無城の新規取立大名として菊間縁側に詰めた。正徳1年(1711年)に2代肥前守忠位が大坂定番に就任した際に加増されて大名に列した。その後しばらく領地に居所を作らなかったが、享保10年(1725年)に安房北条の陣屋を居所とし、文政10年(1827年)に上総鶴牧に移転した。当主は、大番頭や若年寄といった役職に就任する機会が多かった。

1.周防守忠増

寛永2年(1625年)生まれる。寛永18年徳川家綱附きの小姓となる。慶安3年(1650年)には西丸の徒頭に転任し廩米500俵を与えられ、儀式の際に布衣(無紋の狩衣)の着用を許される。明暦3年(1657年)小姓組番頭となり従五位下に任官し周防守を名乗る。万治2年(1659年)に5000石の領地を与えられる。その後書院番頭、大番頭を歴任し、元禄5年(1692年)には奥詰に任ぜられる。元禄7年に江戸で死す。妻は土屋民部少輔利直の娘。
2.肥前守忠位

明暦1年(1655年)江戸で生まれる。寛文3年(1663年)に徳川家綱に初めて披露され中奥小姓になる。寛文9年に従五位下に任官し肥前守を名乗る。元禄7年(1694年)に父の死により家督を相続する。元禄9年側衆となり、正徳1年には大名役の大坂定番に就任し、加増され1万2000石の大名に列する。正徳3年に大坂で死す。正室は池田久馬助政武の養女、その死後姉小路大納言公章の娘を継室とする。
3.壱岐守忠定

元禄4年(1691年)に松平越中守定重の子として伊勢桑名で生まれる。正徳2年に忠位の養子となり徳川家宣に初めて披露され、従五位下に任官し壱岐守を名乗る。正徳3年に養父の死により家督を相続する。享保4年(1719年)大番頭になり、享保8年に若年寄に進む。享保10年に領地を安房に移され、北条の地に陣屋を築く。享保20年に3000石加増される。寛延1年(1748年)に江戸で死す。正室は忠位の娘。
4.壱岐守忠見

享保15年(1730年)に江戸で生まれる。寛保3年(1743年)に徳川吉宗に初めて披露される。延享1年(1744年)従五位下に任官し肥前守と名乗る。寛延1年に父の死により北条藩を相続する。翌年大番頭になり、その後奏者番、若年寄を歴任する。安永4年(1775年)に江戸で死す。正室は板倉佐渡守勝清の娘。
5.壱岐守忠韶

宝暦11年(1761年)に江戸で生まれる。安永4年(1775年)に父の死により北条藩を相続する。安永8年に徳川家治に初めて披露され、従五位下に任官し壱岐守を名乗る。天明4年(1784年)に大番頭になり、その後奏者番、若年寄を歴任する。文政10年(1827年)に陣屋を上総鶴牧に移す。文政11年に死す。正室は大岡兵庫頭忠喜の娘、離婚後に溝口主膳正直養の娘を継室に迎える。
6.壱岐守忠実

寛政4年(1792年)に生まれる。文政11年に父の死により鶴牧藩を相続する。天保10年(1839年)より西丸若年寄を勤める。天保13年に死す。正室は島津薩摩守重豪の養女、継室は牧野備前守忠精の娘。
7.肥前守忠順

文政7年(1824年)に生まれる。天保13年(1842年)に父の死により鶴牧藩を相続する。嘉永1年(1848年)に奏者番になる。正室は前田備後守利之の娘。

山形藩水野家
監物忠元を祖とする家。代々監物を名乗り帝鑑間に詰めた。領地は、下野山川より駿河田中、三河吉田、同岡崎、肥前唐津、遠江浜松と要地を転々としている。長崎警護の役目がある唐津藩時代を除いて幕府の要職に付くことが多かった。享保の改革で徳川吉宗を補佐した和泉守忠之や天保の改革を主導した越前守忠邦等、著名な老中も輩出している。忠邦以降、改革失敗の責任をとらされて出羽山形に転封となる。

1.監物忠元

天正4年(1574年)に尾張小河城主水野織部忠守の子として生まれる。慶長10年(1605年)に従五位下に任官し大監物を称する。小姓組番頭、西丸書院番頭を歴任し、幕政にも関わる。下総下野近江において3万5000石の領地を与えられて大名に列する。元和6年(1620年)に死す。正室は紀州徳川家の家臣三浦長門守為春の娘。
2.監物忠善

慶長17年(1612年)に江戸で生まれる。慶長19年に徳川家康に初めて披露される。元和6年父の死により家督を相続する。寛永7年(1630年)に従五位下に任官し大監物を名乗る。寛永12年に1万石加増の上駿河田中に転封となる。その後、19年には三河吉田に、正保2年(1645年)には5000石加増の上同国岡崎に、とたびたび転封された。太平の世にありながら尾張藩を仮想敵国とした軍備の強化に奔走し、そのことを巡り嫡子忠春と対立した。延宝4年(1676年)に江戸で死す。正室は井上主計頭正就の娘。
3.右衛門大夫忠春

寛永18年(1641年)に江戸で生まれる。慶安4年(1651年)に徳川家綱に初めて披露される。承応3年(1654年)に従五位下に任官し右衛門大夫を名乗る。延宝4年に父の死により岡崎藩を相続する。天和1年(1681年)に奏者番兼寺社奉行に就任し、貞享2年(1685年)まで勤める。元禄5年(1692年)に江戸で死す。正室は前田淡路守利次の娘。
4.豊前守忠盈

寛文2年(1662年)に江戸で生まれる。延宝6年(1678年)に徳川家綱に初めて披露され、同年従五位下に任官し豊前守を名乗る。元禄5年に父の死により岡崎藩を相続する。元禄9年(1696年)に奥詰となる。元禄12年(1699年)に江戸で死す。正室は本多下野守忠平の養女。
5.和泉守忠之

寛文9年(1669年)に三代忠春の子として江戸で生まれる。一族の水野清吉郎忠近の養子となり、延宝2年(1674年)にその領地2030石を相続し、使番、新番頭を歴任する。元禄12年に兄忠盈の死により岡崎藩を相続し、同年従五位下に任官し大監物を名乗る。元禄15年(1702年)に赤穂浪士のうち9人を預けられる。宝永2年(1705年)に奏者番に就任して以降、若年寄、京都所司代を歴任する。正徳4年(1714年)には従四位下侍従に昇進し、名乗りを和泉守に改めた。享保2年(1717年)に老中に就任し、享保の改革に参画する。10年に1万石加増される。15年、多病を理由に老中を免職となり家督を子忠輝に譲る。翌年江戸で死す。
6.監物忠輝

元禄4年(1691年)に江戸で生まれる。宝永1年(1704年)に徳川綱吉に初めて披露される。翌年従五位下に任官し右衛門大夫と名乗る。正徳2年(1712年に右衛門佐、享保14年(1729年)に大監物と名乗りを改める。享保15年に父の隠居により岡崎藩を相続する。元文2年(1737年)に岡崎で死す。正室は井上河内守正岑の娘。
7.監物忠辰

享保7年(1722年)に江戸で生まれる。元文2年に父の死により岡崎藩を相続し、同年徳川吉宗に初めて披露され従五位下に任官し大監物を名乗る。藩政改革を巡って家臣と対立し、宝暦2年(1752年)に押し込めにあい隠居を強要される。同年死す。正室は本多中務大輔忠良の娘。
8.和泉守忠任

享保19年(1734年)に一族水野平十郎守満の子として生まれる。宝暦1年(1751年)に忠辰の養子として徳川家重に披露され、同年従五位下に任官し織部正を名乗る。翌年忠辰の押し込め隠居により急遽岡崎藩を相続する。宝暦9年和泉守に名乗りを改める。12年肥前唐津に転封となる。安永4年(1775年)に隠居し、文化8年(1811年)に死す。正室は監物忠辰の娘。
9.左近将監忠鼎

延享1年(1744年)に浅野安芸守宗恒の子として広島で生まれる。明和4年(1767年)に忠任の養子となり、徳川家治に初めて披露される。同年従五位下に任官し左近将監を名乗る。安永4年に忠任の隠居を受けて唐津藩を相続する。安永8年(1779年)に奏者番に就任する。文化2年(1805年)に隠居し、文政1年(1818年)に死す。正室は監物忠辰の娘。
10.和泉守忠光

明和8年(1771年)に江戸で生まれる。天明5年(1785年)に徳川家治に初めて披露され、同年従五位下に任官し式部少輔と名乗る。文化2年に父の隠居を受けて唐津藩を相続する。文化9年(1812年)に隠居し、11年に死す(徳照院叡嶽宗俊大居士)。正室は浅野安芸守重晟の娘。
11.越前守忠邦
12.和泉守忠精

天保3年(1832年)に生まれる。弘化2年(1845年)に父の隠居を受けて浜松藩を相続。同年父が老中在職中の不正を咎められ、2万石減封の上出羽山形に転封となる。安政5年(1858年)奏者番兼寺社奉行に就任。その後、若年寄、老中を歴任する。慶応2年(1866年)に隠居する。正室は井上河内守正春の娘。
13.和泉守忠弘

安政3年(1856年)に生まれる。慶応2年に父の隠居を受けて山形藩を相続。明治2年(1870年)に版籍を奉還する。正室は水野大炊頭忠幹の娘。

安中藩水野家
水野弾正忠分長を祖とする家。新規取立の城主として雁間に詰め、大番頭や奏者番といった役職に就く機会が多かった。領地は、水野氏の故地である尾張小河より、三河新城、上野安中と変遷した。寛文7年(1667年)三代信濃守元知が乱心して妻女である山形藩水野氏水野監物忠善(当時は岡崎藩主)の娘を殺害したため改易となる。その後子孫は旗本として存続した。

1.水野弾正忠分長

永禄5年(1562年)水野藤次郎忠分の子として尾張で生まれる。小牧・長久手の戦いや九戸一揆に徳川家康の旗下として参戦する。慶長4年(1599年)に大番頭となる。関ヶ原の合戦に参戦し、戦後の慶長6年尾張小河9820石の領主となる。慶長9年に従五位下に任官し備前守を名乗る。慶長11年には三河新城藩1万石に転封となり、元和2年(1616年)に2000石加増される。元和6年に水戸家徳川頼房附きとなり、安房国内に1万5000石の領地を与えられ名乗りを弾正忠とする。この時新城藩は子の元綱が相続する。元和9年に江戸で死す。この際安房領は収公される。正室は山口半左衛門重勝の娘。
2.水野備後守元綱

文禄3年(1594年)尾張で生まれる。慶長12年(1607年)に徳川秀忠に初めて披露され、慶長17年に従五位下に任官し大和守を名乗る。元和1年(1615年)に書院番組頭となり、翌年父の領地と別に1000石を与えられる。元和6年に父が頼房附きになったことに伴い新城藩を相続し、名乗りを備後守と改める。寛永3年(1626年)に大番頭に就任し、寛永9年には奏者番を兼任する。寛永10年に4000石を加増され、正保2年(1645年)には上野安中に2万石で転封される。この年大番頭を辞任し、万治2年(1659年)には奏者番も辞任する。寛文4年(1664年)に隠居し、翌年江戸で死す。正室は中川修理大夫秀成の娘。
3.水野信濃守元知

正保1年(1644年)江戸で生まれる。承応1年(1652年)に徳川家綱に初めて披露され、明暦3年(1657年)従五位下に任官し信濃守を名乗る。寛文4年に父の隠居により安中藩を相続する。寛文7年(1667年)乱心して正室の水野監物忠善の娘に傷を負わせ、自らも自害しようとする。このため安中藩は改易となる。家督はその子弾正元朝に相続を許され、元朝には蔵米2000俵が支給された。

新宮藩水野家
出雲守重央を祖とする家。重央は徳川頼宣の附家老となり、頼宣の領地移動に伴いその領内の遠江浜松城、紀伊新宮城を与えられた。その後子孫は新宮城主、紀州徳川家家老として続く。明治維新後功績を認められ、正式に立藩し男爵となった。

初代 出雲守重央
重良(二代)
定勝
二代 淡路守重良
重上(三代)
三代 土佐守重上
(実子なし)
四代 淡路守重期(新庄家から養子)
(実子なし)
五代 大炊頭忠昭(水野分家から養子。定勝の孫にあたる)
忠興(六代)
六代 筑後守忠興
(実子なし)
七代 飛騨守忠実(水野分家から養子。忠昭の弟・忠伸の孫にあたる)
範明(早世)
八代 対馬守忠啓(忠実の孫)
忠央(九代)
九代 土佐守忠央
忠幹(十代)
勝任(下総結城藩主)
十代 大炊頭忠幹
家老#陪臣の叙爵

その他
水野勝成の子・成貞は、旗本となったが、その子・成之(十郎左衛門)知行3,000石が幡随院長兵衛と乱闘し殺害したことは不問に処されたが、その後行跡怠慢により母の実家の蜂須賀家にお預かりとなり、評定の為に召喚された時、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬なので即日切腹となり断絶した。その後、弟の水野忠丘が旗本として召しだされた。

また、大名としての水野家の他に、尾張藩に仕えた水野家がある。

1. 常滑水野家

水野忠政の兄弟、水野忠綱を祖とする。常滑城(城趾は愛知県常滑市山方町)主として、この地を領した。三代水野守隆は本能寺の変の際に明智方とみられ、のち隠遁、慶長3年(1598年)京都で没したが、その妻総心尼(忠政の次男水野信元の娘、家康の従兄弟にあたる)は、中山光勝(五郎左衛門、父は岩滑城主中山勝時)の養子であり、総心尼の妹(名前は明らかではない)の実子である新七郎を養子として迎え、同家を再興し、新七郎は水野保雅を名乗り、彼とその子孫は尾張藩に仕えて幕末に至った。

2. 河和水野家

河和城(愛知県美浜町河和字西谷)主戸田守光と水野信元の娘、妙(総心尼とは姉妹となる)との子光康を祖とする。天正18年(1590年)、父守光は秀吉旗下として参加した小田原の役で討死。夫の死後、剃髪した母妙源尼と共に、江戸で伝通院の庇護を受ける。慶長2年(1597年)母方の姓を名乗って水野光康となり、家康より700石の知行を与えられる。慶長6年(1601年)河和郷に復して1460石を与えられ、のちに尾張藩士となる。同じく子孫は尾張藩に仕え、幕末に至るまで旧河和城下に屋敷(河和屋敷とよばれていたらしい)を持っていたという。

系譜
太線は実子、細線は養子。
貞守

賢勝

清忠

忠政
┣━━┳━━━━━┳━━━━━━━━━━━┓
信元 忠守    忠分          忠重
    ┣━━┓   ┣━━┳━━┓     ┣━━┳━━━━━━━━━━━┓
   守重 忠元 分長 重央 松平勝政  勝成 忠胤          忠清
    ┃   ┃  ┃  ┣━━┓     ┣━━┳━━━━━━━━┓  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━┓
   守正 忠善 元綱 重良 定勝    勝俊 勝直       成貞 忠職               忠増
    ┃  ┃  ┃  ┃  ┃     ┃  ┣━━┓     ┃  ┃                ┃
   守重 忠春 元知 重上 重矩    勝貞 勝長 勝政    成之 忠直               忠位
    ┃  ┣━━┓  |  ┣━━┓  ┃     ┣━━┓     ┣━━━━━┓          |
   守満 忠盈 忠之 重期 忠昭 忠伸 勝種    勝庸 勝前    忠周    忠穀         忠定
    ┃     ┃     ┃  ┃  ┃        ┃     ┣━━┓  ┃          ┃
   忠任    忠輝    忠興 守鑑 勝岑       勝起    忠幹 忠恒 忠友         忠見
          ┃         ┃           |           |          ┃
         忠辰       忠実          勝剛          忠成         忠韶
          |         ┃           ┃           ┣━━━━━━━━┓ |
         忠鼎       範明          勝愛          忠義       忠紹忠実
┏━━━━┳━━━╋━━━━┓    ┃           ┃           ┣━━┳━━┐  ┃ ┃
内藤正国 米倉昌俊 忠光 内藤政環  忠啓          勝進          忠武 忠良 忠誠 忠寛忠順
┏━━━━┳━━━┫         ┃           ┃                    ┃
内藤正縄 堀直哉 忠邦       忠央          勝寛                   忠明
          ┃         ┣━━┓                             ┃
         忠精       忠幹 勝任                            忠敬
          ┃            |
         忠弘          勝知

2009年01月21日

ハンドボール (handball)

ハンドボール (handball) は、7人ずつの2組がボールを相手のゴールに投げ入れて勝負を競うスポーツである。走・跳・投という運動における基本3要素を求められさらにボディコンタクトという格闘的な意味も含めた総合スポーツでありダイナミックなシュートシーンやスピーディーな試合展開が魅力となっている。五輪競技であり、本場欧州では、サッカーに次ぐ人気を誇る国もある。日本ではマイナーなスポーツの印象でありソウル五輪以降出場できないでいる(女子に至ってはモントリオール五輪の1回のみ)。ちなみに北京オリンピック(2008年)で実施される28競技中、日本の代表選手が男女ともに出場できなかったのはハンドボールとバスケットボールだけである。 日本語では送球(そうきゅう)とも呼ばれ、中国語では手球という。

1898年にホルガー・ニールセン(Holger Nielsen、人工呼吸法の一つ「ニールセン法」を考案した人物)が考案し北欧を中心に行われていた7人制と、1910年代に現在のドイツ・ベルリンで女子を中心に行われていた11人制の2つの形式で始まった。当初は11人制だったが、徐々に7人制の方が主流となり、女子は1962年、男子は1967年の世界選手権から7人制で一本化された。1906年には、最古のハンドボール競技規則が刊行された。

日本では1922年7月24日、大谷武一が大日本体育学会において11人制を紹介、1938年、日本ハンドボール協会設立、1952年には7人制が初めて行われ、以降、7人制が普及した。

男子競技が夏季オリンピックに正式種目に採用されたのは1936年のベルリンオリンピックからで、アドルフ・ヒトラーの特別要求によって実現した[要出典]。一時期、正式種目から外されるが、1972年のミュンヘンオリンピックから復活した。

一方、女子競技については男子よりも1大会遅く、1976年のモントリオールオリンピックから正式種目になった。

日本代表のオリンピック出場は、男子が1972年、女子が1976年が最初である。以降、男子は1976年、1984年、1988年の大会に出場、2008年は予選再試合があったが惜しくも韓国に負けて出場できていない。女子は1976年の大会(5位入賞)のみに出場。

コートの大きさは40m×20m[1]。
コートのラインの上は外の扱いであり、ラインを踏んでボールを所持すると外に出たことになる。
ゴールの中の大きさは高さ2m×幅3m、ゴールポストの幅は8cm[1]。
ゴールエリアラインはゴール前方6m[1]。
フリースローラインはゴール前方9m。
ペナルティースローラインはゴール前方7m。
センターラインから4.5m先に15cmの線が両側に引かれ、自陣側のそことセンターラインの間で選手の交代をする。

競技時間
高校生以上は前後半30分、中学生は前後半25分、8-12歳は前後半20分で、休憩時間はいずれも10分。
正規の時間で勝敗が決まらない場合は、5分の休憩後に10分間の延長を行う。それでも勝敗が決まらない場合は7mスローコンテストを行う(第2延長が行われる場合もある)。
延長戦以外の前後半に1回ずつそれぞれ60秒のタイムアウトを請求できる。ほとんどの中学・高校の大会の決勝リーグなどの重要な試合以外では、タイムアウトを取れない場合が多い。

競技人数
1チームはコートプレーヤー(CP)6人とゴールキーパー(GK)1人の計7人以下で構成される。このため、選手の交替の時にベンチに戻るほうがコートの外に出る前に交代要員が中に入ると、コート内に8人以上がいることになるため不正行為となる。
ゴールキーパーもゴールエリアの外に出てプレーできるが、その際はコートプレーヤーと同じ扱いになる。

交代の方法
選手交代はセンターラインから4.5mのエリアで行われる。
選手交代は自由にできる。レフェリーに申告する必要はなく、インプレー中に何度でも交代することができる。このため、ディフェンス専門の選手とオフェンス専門の選手に分業しているチームもある。しかし、速攻をかけた時やかけられた時など、交代をすることができない場合は、交代をせずにそのままの選手で続けることがある。
不正交代があったときは、二分間の退場が与えられる

ハンドボールではサッカーなどと違って年齢でコートの広さが変わることはなく、ボールが変わるだけである。ボールの大きさや重さはルールで決まっているため、高校生以上は3号球、中学生は2号球、小学生以下は1号球を使う。大きさ、重さは以下の通りである。

ボールの大きさ 外周[cm] 重さ[g]
3号球 58~60 425~475
2号球 54~56 325~375
1号球 49.5~50.5 255~280

ボールの移動
ボールはパスとドリブルでつなぐ。ボールを持って3歩まで歩くことが認められ、ボールを持ったときを0歩として数える。空中でボールをつかんだ場合は、地面に着いたときを0歩として数える。両足で着地した場合は、着地後に踏み出した足が1歩目である。
バスケットボールにおけるピボットステップは存在しない。ボールを持った選手が行った場合はステップを行った数をそのまま歩数として数える。
ただし、片方の足にもう片方の足を引き寄せる行為は、歩数に数えない。
わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

得点
ボールがゴールラインを完全に通過したときにはじめてゴールとなり、一点が加算される。
レフェリーは次のスローオフが行われるまで得点を取り消すことができる。

反則
以下の反則があった場合は相手側にフリースローが与えられ、明らかな得点機会を反則によって防いだ場合は7mスローが与えられる。しかし、ハンドボールにおける反則はバスケットボールなどと比べて警告や退場(後述)でもない限り重いものではないので、ホールディングなどで止めるのも守備側としては成功である。審判はジェスチャーによって、どのような反則かを示し、罰則がある場合はその判定を示す。

また、かなり強い接触まで認められるため審判の技量によっては反則や罰則の基準がばらついたり、同じプレイが審判によって判定が変わることがある(中東の笛参照)。

ラインクロス
味方キーパー以外が6mラインの中(ゴールエリア)に侵入すること。
ただし空中でプレーすることは認められる。
ダブルドリブル
ドリブルをいったん終了した後、再度ドリブルをすること。ハンドボールでは、バスケットボールと違いボールが持てるので、下からすくうようにしてボールを「こねる」のは持ったとみなされダブルドリブルになる。
オーバーステップ
ボールを持って4歩以上歩くこと(空中でボールをキャッチした場合は、着地足は0歩目となる。両足同時に着地した場合も両方合わせて0歩)。
オーバータイム
ボールを4秒以上保持すること。
ホールディング
相手プレーヤーを腕や手で捕まえること。
プッシング
相手プレーヤーを押すこと。
チャージング
相手プレーヤーに突き当たること。
ハッキング
ボールを持っている手などをたたくこと。
キックボール
ボールをひざから下で処理すること。
パッシブプレー 
パスやドリブルを繰り返し、攻撃する意思がない消極的プレーをすること。審判が片手を挙げパッシブプレーの予告をする。バスケットボールの24秒(30秒)ルールに近いものだが、ハンドボールではパッシブプレーに該当するかどうかは審判の主観に委ねられ、時間は一切関係ない。
トリッピング
故意に足を出し、相手の足を引っかけること。
バックパス
サッカーのバックパスと似たルールで、CPから自陣ゴールエリア内にいる味方GPにパスを出しGPがこれをとると、バックパスになる。GPが自陣ゴールエリアから出ていればCPと同じ扱いなので、バックパスにはならない。